アーカイブ

過去に執筆した記事のアーカイブです

羊水はたぶん潮の香り

『「まちを残す」にまつわる実践者たちの語り』vol.4は本原玲子さん。土を通して自然の循環を実践する「ARTORO」の話を聴いた。いなくなってしまった古代人の生活を実践し「実感」する。知識とか知見は頭のものだけれど、「実感」はもっと心に根差したものなのだろう。本や会話からは得られないな。

僕が港に来て実感することは、海という莫大な自然がそばにいる安心だと思う。モヤっとしたとき、ズーンとしたとき、えいっと海へ駆けつける。海があるという現実だけで、もういいと思えるのだ。それは人間も海から来た生命だからだろうか、とか思う。聞くところによるとヒトは、子宮の中で生命の進化の歴史を辿るという。細胞が分かれ形ができると、エラと尻尾のある魚になり、両生類になり、次は爬虫類、そして哺乳類になる。35億年かけたヒトへの進化をたった40週で行なうのだ。その壮大さに思わずう―んと唸る。よくわからんがとりあえず、祖先たちよありがとう!(ポットラック新聞 かわら版掲載)

海とセンチメンタルゴジラ

俺たちは二人だった。港に来たんだから海に行こうと、名古屋港ポートビル周辺まで歩いてきた。とっくに太陽は海へとどっぷり浸かり、星らしき光も針穴程度しか見えず、なんだかのっぺりとした夜空が広がっていた。

友人は急に黙りこくって、暗くて見えないであろう地平線を眺めていた。

海に関しては一つ思い出がある。10歳にもなっていない頃、家族旅行で行った鹿児島でフェリーに乗った。今までこんなに沢山の水は見たことが無くて、俺はかなりはしゃいでいた。そして落としてしまったのだ。相棒のファイナルゴジラを。ひとしきり泣いた後、あいつが海で大きくなって帰ってくるんじゃないかとワクワクしていた。

それにしても真剣な眼差しだ。友人は口を開くと「海を見てるとさ、海じゃなくて山が好きだって思い出すんだよ。焚き火とか。」と言った。

海を見て、山を思い出す人もあるのだ。

俺は友人とハリウッド版ゴジラを観に行く約束をして帰路についた。幼き日の相棒は海を越えて、キングコングと戦うらしい。負けるな、ゴジラ。(ポットラック新聞かわら版 掲載)

お店紹介記事(ジンジャー・モノコトさん)

そこは路地裏にひっそりと佇んでいた。暖かい色味の明かりが漏れ出していて、北欧を思わせる木の扉が開かれている。この匂いはカレーだろうか?しかし、どこか不思議な香りがする。看板には「凄いジンジャーキーマカレー」とあった。

店に入ると、木製のカウンターにフローリング、白い壁。入った瞬間から居心地の良さが伝わる。優しい笑顔で迎えてくれたご主人は、あの「大須モノコト」の店主でもあるが、おいしいカレーができたので、お店を出しましたとのことだ。

 

目玉はなんと言っても特製ジンジャーカレー。ショウガ、トウガラシ、グローブ、レモングラス…。様々な材料を2ケ月間漬け込み、砕いたスパイスを使用したキーマカレー。それをこだわりの十穀米、トマト、パクチーとともにいただく。上品にそれぞれ少しずつ食べるもよし、ぐわーっとかき混ぜるもよし。生姜感たっぷりのピリピリした味わいで、途中でレモンをさっと絞れば、違った味も楽しめる。

お店は隠れ家サイズの居心地のいい空間なので、ひとりでゆっくり食べたい僕にはぴったりだった。コロナ禍にお店で食べるはちょっと…という方に嬉しいテイクアウトも。ちなみに、自家製ジンジャーエールというのもあって…。(大須シネマ フリーペーパー掲載)

進化の海

8歳の夏、名古屋港水族館へ訪れたことを覚えている。それまで海に持っていた印象は、寂しい場所というものだった。森に一歩踏み入れば樹や草、虫、そしてもちろん動物たち、とにかく生物の密度が多い。一方で海は、ほとんどが水で生物の空白が多かったからだ。その印象から、なんとなく水族館にはワクワクしなかった。

水族館内に入る。人間と魚でごった返したベルーガを横切り奥へと進むと、神秘的な気配を察知した。「進化の海」と名付けられた空間、顔を上げると巨大な骨格が宙吊りになっていた。クジラ。その巨躯を内包しえる「海」という大きな穴。きっと海は、大陸よりもずっとおおきいのだ。そのことを僕は、ゾウとクジラの体長比較で見出した。そうか、空白があるからこそ、大きな生物が生まれるのだ。他にどんなやつがいるのだろう。そう言えばゴジラも海から来ていた。

しかしその骨格は、少しばかりの恐怖も残していった。暗い海で大きな骨が泳ぐ姿を、今でも夢に見る。(ポットラック新聞かわら版掲載)

成人の日

 柔かい朝日を浴びながら、僕は一番の白シャツに袖を通していた。今日は成人の日。なんでも成人をした従姉妹が振袖姿を見せに来るらしく、いい機会だと近い親戚が集まることになったのだ。母と紅茶を淹れているとインターホンが鳴り、玄関へ向かう。その最中に僕は彼女の記憶を手繰り寄せていた。ジャングルジムに登る後姿。着慣れない喪服に身を捩る仕草。あどけない笑顔。浮かびあがる姿はまだ少女で、随分と疎遠になってしまったのだと思う。

ドアを開けると太陽に目が眩む。そして、光の方から声が聴こえた。「久しぶり」そこには、大人の女性がいた。群青に赤い花弁を散りばめた着物に背筋を伸ばし、口元には微かに面影をほころばせている。「私、もう二十歳になっちゃったよ」いじらしく告げた彼女の言葉が、妙に心に残った。

まちなかサルベージは記憶の海で

この前読んでた論文で、偉いおじさん言っていた。「風景を見ることは、想起された記憶を用いて、自分なりの情景を創造する芸術行為なのだ」と。それっていったい、どういうこと?

最近、実家の近くのおっきな畑が潰されて、住宅地がドスンと腰を下ろした。そこにあったのは畑だけではない。積み上げられた牛の糞。一帯を真っ白にする野焼き。ちょくちょく来ていた野良猫。鍬を振る手を止めて挨拶をするおじさんおばさん。その風景を僕は、もうずっと見る事はないのだ。

場所が無くなれば、そこに居た人々の風景も無くなってしまう。そこで起こっていたことも含めて風景なのだ。

港まちには、おもいでの痕跡がたくさん散らばっている。ビルの頭の「TAX FREE」。ひっそり佇む純喫茶。誰もいない船溜り。

今でも現役の場所もあれば、24時間シャッターが下りているところもある。僕は立ち止まって、いつかの港の人々の、毎日を見つめる。すると、自分だけの風景が夢のように組み上がっていく。偉いおじさんよ、今なら少しわかる気がするのだ。(ポットラック新聞 かわら版に掲載)

く〜、いつか生で見たい!

 今回はオンラインで開催された音楽プログラム。朝一はクラシカルな楽器たちの心地よいハーモニー…から一転、名港サイファーの皆さんによるラップパフォーマンス!信じられないプログラムだ!っと勝手にテンションMAX。そして午後、いやー創作楽器のICHIさんすごかった。自作の楽器を山盛り装備した姿に視聴ブースがどよめく。木琴。三味線?、ハーモニカ、コントラバスの先っちょ?金属の桶みたいなのに水を入れる音、それを叩く音、膝の裏に仕込まれたラッパ、ボールが跳ねる音、鈴のついた竹馬、どこまでも新鮮!けれど牧歌的な心地よさもある奇妙な感覚。く〜これはいつか生で聴きたい!国境を越える…というよりは国家を持たない未体験の音楽でした。最後は女性会の皆さんの盆踊り。薄暗い公設市場をライトブルーの照明が映し出す。そんな異質な空間での盆踊りは、かなりサイバーパンクな世界観。ドラァグクイーンの皆さんも加わって盛り上がりは最高潮に!と、締めはお決まりのダンシングヒーロー。盆踊りなのにクラブで一夜明かしたみたいな後味…ボリューム満点のライブでした。(ポットラック新聞 かわら版52号掲載)